
今年は新型コロナ一色に世界中が染まり、その影響でブログを書く時間等はたくさんあったのに、本当に何を書いていいのかわからなくて、東日本大震災の時はあんなに発信したいことがあったのになぁなんて思いながら過ごしていました。
自分の中で何かが止まってしまい、ただただ観察をしていたような1年でした。
私は、一応スピリチュアルな観点を取り入れながらのヒーリングや願望実現セッションをしている立場からこの1年のことを振り返ると、こういう形で世の中は一度リセットされる必要があった、そういうところまで来ていたのだなぁと思います。
これからは風の時代と言われるように、、天空界ではすでに12月22日に時代が変わったわけですが、現実社会はだんだんにそこに追いついていくわけで、その前には当然リセットが必要だったなと。
とても厳しいリセットでしたが、痛々しい破壊や殺戮が起きるような戦争ではなかったこと、大きな自然災害ではなかった事、世界に公平に起きたこと、国を越えての行ききが一旦止められたこと、でも、各人がスマホを持ち、情報は常に共有されたことなどは神様の心遣いなのかなと感じています。
人それぞれいろいろな影響があったと思いますが、私の周りにいる人たちはみんなたくましく、案外楽しかったとか、時間ができてよかったとか、要るものと要らないものがよくわかったとか、この1年をプラスに捉えている方たちが多くて、素晴らしいなと思っています。
私自身もプラスだったことといえば、YouTubeとズームに詳しくなりました。
YouTuberと言われるのは、ヒカキンさんとかはじめしゃちょーさんとか、そういう超有名な方しか知らなかったのですが、なんと普通の方々が普通の自分の日常を公開してたくさんのチャンネル登録者を持っておられる事かと。
そして実際に役に立つこと、ほっとさせられるものがたくさんあるんですよね。
モーニングルーティーンやキッチンリセットなどの言葉も知りました。
様々な分野のプロの方たちもたくさんの情報を無料で動画に起こしていて、本当に凄い時代がやってきてるなぁと思います。
私は必要に迫られてマスクの作り方を1つだけ動画にしましたが、その後は全然続きませんでした。
2021年はもう少し自分が発信できる事は何かなと考え、この波に乗ってみたい気持ちが40%位あります。スタートするにはちょっとした勇気と勢いが必要ですね。
あと、止まっていた感じの中で1つだけ生み出すことが出来たのは「セルフデザイン数秘」です。
自分の数秘に名前をつけようと思ったのもネットで数秘の情報はこんなにも詳しく溢れているのだと分かったからだったので、それも良かった事でした。
2021年はどんな年になっていくのでしょう。
こんなにも、そのことが誰にも分かっていないというのもなかなか興味深いです。
もちろんまだまだ新型コロナのことが続くと思います。でも少しずつワクチンができたり知恵が出てきたりして、今年のように、振り回される感じからは抜けられるのではないかと思います。
この続きはまた年が明けてから。
ほとんどめったに更新されないブログを気にしてくださりながら、今日も読んでくださった皆様、今年も本当にありがとうございました。
どうぞ良いお年をお迎えください。
2020年12月31日
ちおり
どうぞよろしくお願いいたします。
私は、教わったときに感動した「魂の計画書」という位置づけを大事にしてきました。
そのためには数秘を通して先ず自分を深く理解すること、そして自分が関わる人達のことも理解すること、さらにその素晴らしさを実感したら、人にも伝え、何かのお役に立てるようになっていくこと、それが私が考える数秘の学びのステップでした。
これから迎える風の時代は、個人の個性を生かしてゆく時代と言われています。
そのためには、自分のことをよく理解していることが基本です。
数秘は簡単、且つ深く自分を知ることができ、細かすぎず、あなたはこの道と限定されるものではないので、とても風の時代に向いているのでは?と感じています。
例えば占いで、性格や出来事を細かく言い当てられると、その瞬間は「わぁ、当たってる〜」とワクワクするのですが、次にそのことが窮屈になる段階がやってきます。
数秘には窮屈さがなく、こんな感じだよ、こっちの方向だよ、とそんなにニュアンスで捉えていけるので、そこが私の性格にもあっていて、数秘と縁があったのじゃないかと思っています。
今度、風の時代がスタートしたこの機会に、たくさんの方々に数秘を学んでいただけるようにとオンラインレッスンを始めることにしました(対面レッスンはもちろん今まで通りあります)。
詳細はホームページの方にアップしていますので、興味のある方はご覧になってください。
こちら
また今まで私から数秘を習われた方の中で、毎日数秘のことを考えていて、人にもたくさんお伝えしてきて喜んでもらった経験があるという方がいらっしゃったら(ミッションのある方は必ずそのようなステップを踏まれていると思います)、ぜひセルフデザイン数秘の講座を開いてみませんか?
テキストはこちらで用意しています。
それでは「セルフデザイン数秘」を

恒例の『1年を描く9枚のカード』のお知らせです
皆様2020年はいかがお過ごしでしたか?
言うまでもなく、今年は1月から新型コロナの感染という大問題が起こり、
世界規模で、誰1人、私には関係がないとは言っていられない状況になった1年でした。
東京オリンピックが延期になるなど、考えてもいませんでしたし、
いろいろ新しい形に対応することも多くて、
大変でしたね。
そしてまだ大変だったと過去形できない状況です。
何とか頑張って乗り越えようとしている人達も、
寒さや感染者数の増加によって、
少し疲れが出てきている、
そんなことを周囲を見ていて感じます。
だからこそ、
今回のこのカードセッションは、
いつも以上に意味のあることと感じていますし、
そうしたいと考えています。
西洋占星術を扱う先生方からは、
地の時代から風の時代に大きく変革する時期とのメッセージが
届き続けていて、
私も自分なりに勉強しました。
これは頭に入れておかないといけない変化だと思います。
何を大切にし、どんなことを手放していけば、
新しい時代の波にスムーズに乗っていけるのか、
そういったこともセッションの中でお伝えしながら、
お一人お一人の2021年が.
希望の光が見えるものになるように、
進めていきたいと思っています。どうぞ、
・来年を描くために、
・エネルギーを活性化するために、
・久しぶりに笑うために、
ちおりのセラピールームへお越しください。
※新型コロナ感染者数がまだまだ増え続けていて気になるところですが、
セッションルームは感染対策に心を配り、安全にセッションを行っておりますので、
安心してお越しいただければと思います。
リモートセッションやメールでのセッションも受け付けておりますので、
お問い合わせください。
Osho禅タロットによる
『一年を描く9枚のカード2021』開催時期 12月13日(日)~2021年3月10日頃
10:00~19:00(LO)
*年内は30日(水)17時(LO)まで、年始は1月4日(月)午後1時より
MENU
A .9枚カード+1年の流れを見る4枚のカード+風の時代の話+テーマを絞って1枚(見たい方のみ)
7000円 2時間半
B .9枚のカードのリーディングのみ
6000円90分
C .A+ボディケア(からだほぐし)40分
セット料金 10000円
Aは1番オススメのものです。
Bはとにかく9枚カードのメッセージだけでOKという方のために作りました。全く現状のお話をしないということではありません。
Cについては、からだほぐしも4年目になり、人気メニューになってきました。疲れがなんとなく溜まっている今、どうぞお気軽にお試しください。
特典
今年も感謝の干支チョコレートとメッセージカードをお渡しします。
セッションのお申し込みは、
件名:9枚カード予約 ①お名前 ②希望日時(できれば第3候補まで)③ご希望のコース
右上方のメール、予約フォームほか、fbメッセージ、LINEなど、何でもOKです。
こちらからの返信にご返信いただき日時を確定し、予約成立となります。
年末年始は混み合いますので、早めにご予約ください。
返信が24hない時は何か不具合が起きている可能性が大きいです。
お手数ですが、メールや予約フォーム等違う方法で再送をお願いします。
私ならこういう時に起きそう、
思考を不安な方に向けず、
この出来事を通して、
自分の生活もこんなふうに在りたいな、
と希望の方に向けて、
母が亡くなってから1年余りが経ちました。
毎日、母を思い出さない日はありません。
とにかく私にとって、インパクトが強かったことだけは、確かなようです。
いないことを悲しいと思わないけれど、寂しくはあります。
そして、母の言うことを聞かずに生きても、こんなに幸せになれるんだよと証明したくて生きているようなところがあったので、そこだけは負荷がなくなってしまい、この軽さがちょっとまだ慣れない感じがあります。
それにしても2020年がまさかこんな年になろうとは。
あと1年長生きしていたら、入院してもお見舞いにも行けず、あの時のようにゆっくり向き合うことができなかったのです。
東日本大震災のときには「これは終戦の時よりえらいことやな」とひとこと言った母。今生きていたらこの状況をなんていうのかな、と思います。想像しても、絶対思いつかないようなひとことだったでしょう。
令和になるのを見届けて、コロナの前に行った母。
知ってか知らずか分かりませんが、本当に最後までお見事でした。
お母さん、あなたの娘であったことは、とても大変だったけれど、
たくさんの見事な決断や、名言を側で見聞きすることができて、とても面白かったです。
孫が2歳になりました。ちょっとした仕草や、醸し出す雰囲気があなたに似ていると娘たちが言っています。確かにそうだと思います。すごく可愛くて、どんな大人になるのか楽しみです。
どうか、見守っていてあげてください。
どうぞ安らかに、とは言いません。
あの世でも刺激的な人であり続けてください。
完
長い長い個人的な話を読んで下さって、本当にありがとうございました。
2019年7月24日、その日は長かった梅雨が一転して、真っ青な夏空が広がった日でした。
私は予約がなく、ゆっくり過ごしていた時に、病院からの知らせが来ました。電話をもらった時には既に亡くなっていて、午後2時ごろでしたが、皆さんをバタバタさせることもなく、母は平日の病院が活気づいている時間に、6人部屋のベッドの上で、人知れず息を引き取りました。
全く母らしい最期でした。
私は11月のがガン告知に始まって、実家の片付けもして、時間をかけて母との別れに向き合うことができ、何一つ想い残す事がありませんでした。
父との別れが21歳で、経過もあまりに突然だったので、この事は本当にありがたいことでした。
そのあとの事は、母がしっかりと指示をしていてくれたおかげで、とてもスムーズに何もかもが運び、私と兄と孫たちも集まり、とてもアットホームで穏やかな葬儀ができました。
お通夜は私1人で付き添ったのですが、面白かったのが、何かちょっとした失敗のようなことをするたびに(ものを落として音を出す位のことです)、母の顔をさっと見る私がいる。そして、あぁもう死んでるんだ、怒られないんだ、と何度も思ったことでした。
戒名は、普通なら本人の名前の一文字を入れることが多いと思うのですが、母につけられた戒名は至信(ししん)。私の話を聞いて、とにかく自分の信念を貫かれた方だと思ったから、だそうです。私はお坊さんにも、こんな人だったんです!とたくさん話をしてしまったようです。
親戚と、親しくしてくださっていた方々には、母の写真入りのカードを作って、その障害を簡単に記し、亡くなったことをお知らせしました。ここまでしなくていいのに。嫌いやったん違うの?と気遣ってくれる友人もいましたが、それが私の生き方、なのだと思います。
知らせを受け取って、電話を下さる方、手紙を下さる方などがいらっしゃり、すべての方が心から母に感謝しておられ、号泣されている方も居られて、少々複雑な思いもありますが、きちんとお知らせできて良かったという思いでした。
つづく
入院当初は、熱があっても元気で、早く帰りたいと騒いでいましたが、インフルエンザにかかった後は精気をなくしてしまい、一切の要求を口にしなくなりました。
母は入院する少し前に、私はもうそんなに長くはないと言い出し、葬儀はしないでいい、したければ家族だけでしてもいい、お墓に入れるところまではきっちりしてほしい、法事も仏壇もどうでもいいと、話し出しました。急にすごい話をしだしたので、ちょっと待って、とスマホに録音をしながら聞きました。すべて事務的で、家族や自分の人生に対する想いのこもった言葉などは何もありませんでした。
思えばそれが、母と交わしたしっかりとした最後の会話でした。その時の会話は、スマホの中に今もあります。
私は母がどうしても帰りたいと言えば、実家で医療介護をすることも考え、医療ベッドを入れるスペースを作るために、ひたすら実家を片付けました。
片付けを手伝ってあげるからスペースを開けましょう、と言ったケアマネさんは、実際にお願いすると、退院が決まらないと私は動けない、と断られました。いろいろなルールがあるものです。でも、ケアマネさんの一言がなければ、実家を片付けるスイッチなど入るわけもなかったので、今から思うと、これも本当に守られた出来事でした。
片付けながら、その無茶苦茶な家の様子に、一体いつからこんなに大変な暮らしをしていたのだろうと悲しくなりましたが、それが大変だとか、汚いだとか認知しなくなるのも認知症の症状の1つだと知りました。
とてもマメに片付ける人だったので、確かにそうでなければこうはならないなと思いました。
母は何でも出来た人でしたが、歌が下手であることだけが劣等感、と言うのを感じていました。家を片付けたとき、何よりもカラオケのCDや自筆の歌詞カードが大量に見つかり、最後まで、その劣等感に対して努力をしていたんだなぁと感心しました。そして、きっと歌が好きだったんだなぁと。
仕事をしながら実家を片付けるのはなかなか大変なことで、3月いっぱいかかりましたが、
なんとか形がついた頃には、母はもう帰ってくる事はない状況になっていました。
病院も、長期療養型の病院に転院が決まりました。
転院することに、もう抗う事はありませんでしたが、転院先の病院に落ち着いた時、「私はここで死ぬんやね」と言いました。「何言ってんの」とぎこちなく応えたことを覚えています。
あれはどこまで正気で言っていたのか分かりませんが、「何度もあの世から船でお迎えが来るのだけれど、なかなかうまく乗れないのよ。今度来た時にはきっとうまく乗るわ。いいかげんにせんと怒られる」と。それはすごく情景が思い浮かぶ感じの話で、リフトのようにやってくるんだなぁと思いました。
一度だけ、どうしても家に帰りたいと騒ぎ、本当に困ったことがありましたが、もしかして、と「家に帰りたいって、その家はどこにある家?」と聞くと「平群に決まってるでしょ」と答えました。やっぱり。平群(へぐり)とは母の奈良の実家のことです。「平群にはね、もう誰もいないしおうちもないよ」と言うと納得しました。この頃には母との対応の仕方も上手くなっていました。
それからは、食べなくなり、眠る時間が増えましたが、私が行くと、なんとなくわかってはいて、話はしませんが、帰るときにはいつも手を合わせてくれました。
ガンの症状は何も出ておらず、治療もなく、水分だけが補給されて、病気というよりは老衰という感じでした。
余命宣告をされた7月になっても、同じような状況が続いていたので、私はこのままもう少し生きていてくれるのかな、と緊張感が緩んでいました。でもその日は突然やってきたのです。
つづく
2018年9月に孫が生まれて、その忙しさから少し解放された11月、母の主治医から呼び出されました。ドラマなどでも、大体こういう場合にいい展開は待っていません。覚悟して向かいました。
腹部にガンがあるようで、場所が分からないので精密検査をして欲しくてお母さんに頼んだが、検査などしなくていいとおっしゃっている。本人がそう言われるなら仕方がないが、家族さんには一応お伝えしておかないとと思って。僕としては一応検査をして、積極的な治療はしないにしても、どういう状況なのかは家族さんは知っておく方がいいんじゃないかと思って、というお話でした。
確かに私も知っておきたいと思い、その場で京都市立病院に予約を取ってもらいました。
母は、あなたがそんなに言うのなら、検査に行ってあげよう、と何とか承諾してくれました。
一度目は、まずは紹介された医師に会い、どういう検査をするかなどを話すという理解で行きましたが、主治医が送っていたのはカルテだけではなく、画像があり、いきなり、「大腸癌で、転移もあるし、末期ですね」と言われてしまったのです。
私は覚悟していたので、それほど動揺しませんでしたが、あまりにいきなりだったので.母のことが心配でした。まさか母が宣告を聞くことになるとは、想定外でした。
私は先生の言葉を遮って、先生、病気に関する詳しい事は、母は聞きたくないと言っていますので、母がいないとできないことだけ、お願いできますか?と言いました。
すると母が「私はどんな病気であっても、もう死んでもいいですから、治療を受ける気はないです。何もしないでください」とはっきり言いました。
認知症と言うのはずっとおかしなことを言っているのではなく、時々普通よりピントがあったことをビシッと言ったりするのです。医師と母でいくらかやりとりがあって、結局MRIと血液検査だけは受けることを母に承諾させました。でも積極的な治療を受けないと言う本人の意思は尊重された感じでした。
母が自分が末期ガンであると言うことを認識したのかどうかは確かめようがありませんでしたが、 母は、この時からますます認知症が進んでいきました。
後日、1人で一通り検査結果の説明を受けた後、私は余命を尋ねました。ステージ4で本人が何の治療もしたくないと言うのですから、その時はそう遠くなく、確実にやってくることになります。
医師は「そうですね。。。私の診たてでは、3月頃に何かがあって入院、そして7月かな、ただ何の治療もしないと言うのが異例なので、それがどう作用するかわからないけど」とおっしゃいました。入院こそ1ヵ月早まりましたが、ほとんどその通りになりました。
淡々と本当のことをそのまま話されるけれど、温かみのある良い先生でした。
年が明けて、何度か熱を出し、手を焼いていたケアマネさんが救急車を呼んで、母が丁重に救急隊員さんに断わる、といった出来事も繰り返しながら、2月の初めに熱を出したときは、よほど悔しかったのか素直に救急車に乗り込みました。ケアマネさんの、市立病院に通院しています市立病院に行ってください、の機転を利かした一言で、スムーズに市立病院に入院することができました。
病院まで付き添ってくれたケアマネさんは、「いいですか、熱が出ているだけでは薬をもらって返されることがほとんどです。でもそこで絶対に頑張ってください。一人暮らしで自分も見れないし家に返すのは危ない、どうか入院させてくださいと」
これはケアマネさんにアドバイスをもらわなければ、絶対にできなかったことで、プロってすごいなぁと思った出来事でした。
実際そうなのに、帰ると言われたら私は連れて帰っていたと思います。
実際に病院とはその通りのやりとりがあり、母は無事入院することができました。
でも、ガンに関して治療を望まない母は、熱が下がればすぐに退院と言われました。
どうしたものかとケアマさんと退院後のことを話していたところ、その年大流行していたインフルエンザに院内感染したのです。
病院も申し訳なく思われたのか、インフルエンザが治り次第退院とは言われなくなり、少し猶予ができました。
インフルエンザの間は面会もできず、2週間後に再会したときには母の様子は全く違うものになっていました。
つづく